2005年08月17日

兄の思い出

KONAは三歳ぐらいから、なんらかの記憶があります。ただ、兄が失踪したのが五歳と二年程しか記憶に残せる時間がありませんでした。それでも僅かに残っている、兄・清文の思い出について、触れてみたいと思います。


一番古い、兄との思い出は、自宅の洋室でソファーに座る兄の膝の上に座って、周りには、兄の友人と思われる、お兄さん達が居る記憶です。
兄が小中学生の頃は、友達が良く遊びに来ていたと聞きます。
また、友人の御一方には、「オーディオでクラッシックのレコードを聴きに、高野くんの家に遊びに行っていたよ。」と、話を伺いました。
何回かあった光景が、記憶になっているのだと思います。

洋間.jpg


向かい合って両手を繋ぎ、兄の膝に登るようにして、でんぐり返りする遊びを、良くしてもらいました。兄が居なくなったと理解したとき、「もうでんぐり返りしてもらえないんだ。遊んでもらえないんだ。」と悲しく思った記憶があります。

失踪の前年だと思うのですが、湘南方面に親戚が居るので、そこを訪問し、どの辺りか定かではないのですが、湘南の海で海水浴をしました。
兄の横で、浮き輪につかまっていると、背後からの波で浮き輪ごと逆さまになりました。KONAとしては、突然水の中が見えてびっくりしたのですが、兄があわてて浮き輪を戻したのだと思います。水面上に景色が戻ると、兄がほっとした表情をしていたのが思い出されます。

湘南.jpg


大学一年入学か、二年の進学の時か定かではないのですが、兄の春休みに、当時話題になっていた、パンダ観たくて、上野動物園に、家族五人で行きました。
父がカメラ係、真ん中の兄が荷物係、清文兄が私の係で、母は楽させてもらったと言います。
自分が着ていた、ピンクワンピースに黄色の迷子札がとても鮮明に記憶に残っています。
兄に沢山じゃれて、抱っこや肩車をしてもらいました。

動物園.jpg


真ん中の兄に子供が生まれた時、こんな事を言っていました。「なんか懐かしい匂いがすると思ったら、お前が赤ちゃんの時の匂いだった。」と。失踪した兄・清文が無事に生きて生活し、子供が生まれているなら、その匂いで、KONAを思い出す事があったかもしれません。
posted by KONA at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 兄・高野清文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月30日

兄の生い立ち

29年前の今日、忽然と失踪した兄に一日思いを巡らせていました。今日は兄が失踪するまでの19年間の生い立ちについて、記事にしてみたいと思います。

1956年10月30日兄・清文は、福島県出身の両親の元、父の勤務先である、長野県信更町(現長野市信更町)で誕生しました。
6月1日のブログでも紹介しました

http://konaboration-ssq.seesaa.net/article/4054294.html

「ふるさと」の景色の中で幼児期を過ごした事と思います。
おとなしく、あまりグズルことのなかった赤ん坊の兄は、親孝行だったと言います。
兄が幼い頃は、生活が厳しく、時代背景もあって、父は厳しかったようです。それでも兄は健康優良児で誕生日がもう少し遅ければ、県大会に出る所だったとか。
長野県内を2、3ヶ所転勤し、小学生で塩尻市に定住するまでに、三歳年下の弟が生まれました。
KONAからすると、真ん中の兄が話すには、三つぐらいの年の差の同性の兄弟は、おやつでも、勉強スポーツでも、ライバルだった、と言っています。
やがて、兄・清文が中学生になりもうすぐ14歳になる年に母の願いから、妹であるKONAが誕生しました。思春期で、おとなしい兄はきっと恥ずかしかったのではないかと思います。
それでも優しい兄は、KONAの面倒も見てくれたようです。
合唱やサッカーの部活をし、家には良く友達が遊びに来ていました。切手集めや将棋、クラッシックのレコード鑑賞をしていたと、小中学校の時の友人の方達は言います。

高校の進路は、勉強だけでなく、サッカーもしたいと選んだそうです。
大学の進路は浪人が許されず、かなり葛藤の末、電気通信大学へ進学したようです。
奨学金で通学し、一年生では学生寮の空きがなく、京王線脇に下宿し、2年に入ってようやく学生寮に入寮できた、その三ヶ月後の失踪でした。
春休みに長野で、教習所に通い仮免を取り、4月から6月に調布の自動車学校に通い免許を取りました。夏休み長野の実家に帰ってきて春休みと同じバイトの夜間勤務に応募していました。取りたての免許で、昼間父が通勤に使用している車を運転して、バイトに行くのを楽しみにしていたと言います。
それより何より、兄が帰ってきたら、すぐに、親戚の叔父叔母と、長野県内の観光に行く予定だったとKONAは記憶しています。その証拠に、31日に遊びにきた、叔父叔母にKONAは預けられ、両親の不安そうな顔を見送ったKONAが、不安の中、叔母に生まれて初めて食べさせてもらった、卵サラダサンドウィッチは今でも忘れられない味になっています。

帰ってきたら・・・こんなに予定のあった兄が、自分の意志でどうかなってしまうのは考えにくく、今になって思うと、拉致されたとしか思えないのです。
posted by KONA at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 兄・高野清文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月29日

明日、兄失踪から29年…

捜索ビラ.bmp

画像は、兄の捜索の為、東京神奈川・静岡等、海岸線付近の主要交通機関に張って頂いたという、捜索ビラです。

明日7月30日は、兄・清文が、神津島から突然失踪して、29年目になります。

今回の記事では、2003年1月14日に長野県庁で41人目の公開特定失踪者として記者会見したとき、父・清正が説明した、失踪状況の会見文を転載いたします。なお、その後の調査で、多少変化のあった部分がございますが、公開当時の文章を、そのまま掲載いたします。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

・1976年(S51)7月28日、17名(本人含)の寮生で寮出発。翌29日朝、神津島着。
・29日と30日午前、寮生活について会議。30日の会話の中で「山が晴れている、今日は山(天上山・海抜574m)に行く」と言っていた。
・30日午後1時頃に山に行ったらしい。午後6時半になっても宿に戻らないため、警察に連絡。遭難ではないかと、消防団50名、学生16名、警察17名、一般協力者50名、計130余名で、夜の11時頃まで捜す。
・翌31日、早い人は朝3時半より消防団72名、学生16名、警察17名、他一般協力者が、夕方まで捜したが発見できず、続く8月1日も消防団、学生、警察で捜した。
・海では捜索船が2艘で、島を反対回り、ヘリコプターも飛んで捜索した。
・塩尻の私達の所には、不明翌日の31日朝8時、神津島署より電話があり、8月1日午前5時20分島に到着。午前7時頃より低い山の方を終日捜したが見つからない。
・8月2日は島最大の夏祭りのため捜索はできず、翌3日、約80名15班に分かれて捜索を行う。海上も舟で島を巡回するも、遺留品その他の発見はできなかった。
・ヘリコプターによる捜索は、8月1・4・8日天上山の危険場所と、人の目の届かない場所を2〜3回、捜索を続けた
・8月4日私(父)と寮生6名で天上山に登山し終日捜索を行ったが遺留品遺体等の発見できず。
・8月8〜9日の2日間、警察犬2匹警視庁よりヘリで運び、鑑識警察署員、消防団、役場職員、私(父)、弟(正秀)、12名と14名の2班に分かれて捜索を行ったが、何の手がかりもない。
・10月2日から伯父4名、私(父)、神津島から役場・消防団・警察署計8名が2名づつ4班に分かれて天上山だけ捜索したが、遺留品の発見も手がかりもない。
・その後1977年(S52)7月、1978年(S53)6月と3回訪島し捜索したが、手がかりひとつ見つからなかった。
・1979年(S54)10月8日長野県より登山家(富沢勲夫氏)、伯父2人、民宿主人、私(父)と、天上山の断崖と下の茂みを捜索したが、なにも見当たらない。
・1984年まで、神津島に合計9回捜索に行ったが、何も見つからず不明のまま、現在に至っています。
・当時1976年(S51)7月12日に近隣の新島で22歳の女性が行方不明になっているのを聞きました。後で雑誌『女性自身』の10月26日付紙面に記事が出ていました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

兄が失踪に至る、そして両親の必死の捜索の様子を、この時期改めて見直すと、本当にやりきれない気持ちになります。失踪当時は何もわからなかった。拉致かもしれないと思ってからも、それを確認し、ただちに救出するする術はない。この、家族の無念の思い、皆さんはどう思われますか?
posted by KONA at 12:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 兄・高野清文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月26日

母の戦い

KONAは、週に一度程度、長野に暮らす両親に、電話をしています。
一昨日は、前日に起こった地震を、心配してかけてきた留守電に対して、折り返し電話しました。母だけが居たので、被害は何もない旨伝え、同じ離れていても、兄・清文については、「地震や、気象状況を知る事もできないね」と話しました。
大丈夫だったと安否を知る事ができるのが、こんなに幸せな事かと、悲しくなりました。

続けて母は、「心配するなよぉ」と言いながら、病院の検査に引っ掛かり、再検査を受けないといけない事を話しました。
母は一昨年の夏に子宮ガンを摘出しています。真ん中の兄が、地区の検診を受けさせて、早期発見となった様ですが、実は体の違和感がその前にあったようです。ただ、もう、死ぬならそれでもいいと、医者に行く気もしなかったといいます。
ガンだと言う報告は真ん中の兄からの電話で知らせられたのですが、この時の「兄に会わせられないのかっ!!」というもやもやした気持ちが、母の報告で再びよみがえりました。
子供が居なくなり、何十年もその消息が分からないというストレスは、並のものではないと思います。

そうでなくても、母は、気が強いくせに、純粋で傷つきやすく、子供のKONAからしても、可愛い人です。そういった性格からも、体にストレスを蓄積しているのではないでしょうか。
そんな母を、「お兄ちゃんに会えるように頑張っているから、お母さんも頑張って。」と励まし、本当に頑張って手術を受け、日々体調に波のある体に付き合いながら、二年が過ぎました。

「二年も余計に生きたから心配するな。」そう母が言います。

二年経っても兄が拉致か違うかさえはっきりさせられない、拉致の全容を明らかにできない、自分の無力さに、そして日本政府と金政権に、憤りを感じずにはいられません。
KONAは摘出された母の子宮を見せて頂きました。自分も兄も、そこで数か月お世話になったと思うと、感謝と、この様子を兄にきちんと報告しなくてはならないという気持ちになりました。

KONAは高校生の頃から、自分が42歳になったら、兄が帰って来るような、気がしています。この話に対して、随分前から「お母さんが死んでから、お兄ちゃんが帰って来たら、(日本に居た頃)苦労させと悪かったと、謝っておいてくれ。」と伝言されます。
長男である兄・清文は、厳しく育てられたと言います。また時代としても、家庭としても、豊かな時期ではなく、母は兄を可愛そう、苦労させたと、思っているようです。
この伝言には、「そういう時代に育ったから、北朝鮮に拉致されたとして、厳しい生活をしていたとしても、その経験のお陰できっとお兄ちゃんは生きているよ。私だったら、耐えられないかも知れないけど。」と答えます。「だからお母さんは、ゆったり生活して、少しでも長生きして、お兄ちゃんに会えるようにしてね。」と。

母同様に父も年々体の不調を訴える事が増えています。両親が元気なうちに、再会させてあげたい。どうなったのか訳のわからないまま、そのストレスに蝕まれて再会できず亡くなってしまうことはどうしても避けたいのです。

まもなく、兄が失踪してから29回目の7月30日がやって来ます。数年前には、兄の命日とされていた日です。近づくその日に一刻も早い全容解明を祈ります。(6カ国協議が拉致解決に繋がる事も。)
posted by KONA at 12:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 兄・高野清文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月06日

松本県が丘高校:鮒(27)の会

学ラン.jpg

写真は中学校の学ラン姿の兄・清文です。不鮮明ですみません。

兄・清文が卒業した高校は、松本県ヶ丘高校。27回期生になるそうで、語呂合わせで鮒の会と言うそうです。前出記事「ふるさと」の一節〜小鮒釣りし〜を思い浮かべますが、その同級生のみなさんから、有り難い申し入れがありました。

今月行なわれる東京同窓会で、幹事の持ち回りが、兄の学年なので、配布する冊子にKONAの作成した資料を、カラーで4ページを差し込んでくれるそうです。
その上、地震救援募金の予定を、兄の失踪調査支援の募金へシフトしてくれるそうです!!その際、失踪者のポスターも掲示して頂けるとの事。
また会中、同級生代表の方が兄の失踪について解説してくださるそうです。
本当に感謝に絶えません。関係された皆さん、ここで改めて御礼申し上げます。

ありがとうございます

兄の友人関係者からこのようなお話を頂いたのは初めてで、うれしさのあまり、お礼の連絡を入れると、「僕らは高野くんの同級生ですから。」とお返事を頂きました。

今まで兄には友人や仲間がいなかったのかと、曇っていた気持ちが、一気に晴れる感覚でした。

この前談として、昨年地元松本で同級生数名にお話を伺い、同学年の集まりでKONAが状況説明をする機会を作って頂きました。KONAの話の後、出身中学が同じと言う副会長さんが乾杯の音頭を取る際、

「陸上の学校代表を争って、惜しくも高野君に負けた事を覚えています。自由服高校なのに詰め襟に下駄(!家族は知らず、兄の当時を垣間見る思いでした)で登校していました。本来この場に居るべき、北朝鮮に居るかもしれない高野君に届くように乾杯しましょう。」とお話をし、乾杯をされました。

この挨拶に、両親と三人して泣いてしまいました。KONAは、幼くて知る由も無かった兄を、ちゃんと覚えていてくれた人がいる事に、思わず涙が出てしまいました。

同級生の皆さん、そして同窓の皆さん。これからも兄を通じて拉致問題全体への関心と、兄の失踪の真相究明になにとぞご協力をお願いします。
posted by KONA at 00:39| Comment(1) | TrackBack(0) | 兄・高野清文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月01日

唱歌「ふるさと」

KONAの家族は歌が好きです。
失踪した兄・清文との間にもう一人兄がいますが、家事をしなから、いつも鼻歌を歌っている、歌好きの母の血を引いたのか、三人とも合唱経験者です。

兄・清文は失踪時には「電気通信大学グリー(男性合唱)クラブ」に在籍して、Second Tenorを担当していました。一年生の11月28日(金)には、朝日生命ホールにおいて第18回定期演奏会で
「ドイツ学生歌集」
「Deuxieme Messe」
北原白秋作詩の「雪と花火
「アイヌのウポポ」などを歌っています。

帰国された拉致被害者のみなさんのお話として、心の支えに、日本のうたを秘かに歌っていたと聞きます。
KONAも兄を思い、唱歌では「椰子の実」や「浜辺の歌」を歌うのですが、救う会の集会等で歌われる「ふるさと」はあまりに悲しすぎて、歌う事ができません。
「ふるさと」の作詞者は『高野辰之』。
氏が同じな事もあり、彼の歌詞した唱歌は、もともと大好きです。
また長野県下水内郡豊田村出身で、兄の生まれた長野市信更町に程近く、同じような自然環境で育った事と思います。そんな高野辰之さんの歌詞には、兄が拉致ならば、思い出すであろう情景が描かれています。雨に風に、ふるさと日本を忘れられず、思い出し、いつの日にか帰ろうと思っているのではないでしょうか。

KONA自作の歌ー蒼明ーの歌詞ににも、拉致被害者が秘かに歌っているのではないか、とそのような情景を描きましたが、兄・清文にも「ふるさと」を歌って、生きていて欲しいです。
posted by KONA at 12:38| Comment(2) | TrackBack(1) | 兄・高野清文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする